最古の仏教経典『法句経』をひもとき、釈尊の智慧を参考に、幸せについて考えましょう。

第1章(後半)

Top / 第1章(後半)

第1章 ひと組みずつ(後半)

第1章 ひと組みずつ」には20の法句(ほっく)があります。
二つの法句が一組となり、あるテーマについて述べられます。

ここでは後半として、15から20までの法句を扱います。

なお、章の題名は、中村元訳「真理のことば」(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』1978年、岩波文庫)をそのまま使用します。

善いことをすると二度楽しい

15、悪(あ)しきことを作(な)す者は

ここに憂い

かしこに憂い

ふたつながらともに憂う

おのれの

けがれたる業(ふるまい)を見て

彼は憂い

彼はなやむ (友松圓諦訳)

(現代語訳)悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。(中村元訳)

 

16、善きことを作(な)す者は

ここによろこび

かしこによろこび

ふたつながらによろこぶ

おのれの

きよらなる業(ふるまい)を見て

彼はたのしみ

彼はよろこぶ (友松圓諦訳)

(現代語訳)善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。(中村元訳)

「ふたつながら」で、
「一粒で二度おいしい」というコマーシャルの文句を思い出しました。

ピンと来た方、あなたは40歳以上ですね。

そうです、グリコアーモンドキャラメルのキャッチフレーズです。

「一粒300メートル」も有名ですね。

閑話休題、第15、16番目の詩句にもどりましょう。

ここでは「二度」ではなくて、
「ここ」(この世)と「かしこ」(来世)の「二か所」で、
「憂え、悩む」あるいは「喜び、楽しむ」となっています。

この詩句は「輪廻転生」を前提にしています。

あなたは「輪廻転生」を信じていますか。

私は信じません。

お釈迦様(釈尊)はどうだったのでしょう。

わかりません。

否定はしておられません。

けれども、教えの根幹部分でもなかったようです。

この詩句のように、インドの社会常識であった輪廻転生を利用して、
教えを説いておられたことは事実です。

現代の日本では、「ここ」(この世)を「その行為をしている最中」、
「かしこ」(来世)を「その行為の終わった後」と考えておきましょう。

「こんなことをすると後で罰(ばち)が当たりますね」と問われることがあります。

すでに当たっているのです。

悪い行為をなすこと自体が罰(ばち)ですから。

「仏様にお参りすればいいことがありますよね」とも問われます。

すでに「いいことがあった」のです

「お参り」できるというのは幸せなことです。

手を合わせてお参りしているときには安らかな気持ちになっていますよね。

決して怒ったり、悲しんだり、苦しんだりはしていないはずです。

怒ったり、悲しんだり、苦しんだりしていても、手を合わせてお参りすれば、
安らかな気持ちになれます。

そして、行為はそのときだけで完結するのではなく、
後に影響力を残します。

自分はいやなことがあっても一晩寝ると忘れるタイプだと思っています。

そんな私でも、悪いことをしたことを思い出して、
ドキッとしたり、イヤーな気持ちになったりします。

子どものときにやった悪いこと、
特にばれなかったことを思い出し、後悔することがあります。

行為は、そのときとその後に影響力を残すのです。

はじめにキャラメルを、後にアーモンドの味を楽しめる
グリコのアーモンドキャラメルのように、
行為の影響も二度味わうのです。

二度憂え悩むより、二度喜び楽しんだ方が、
はるかに幸せなのは言うまでもありません。

いつも行為に注意しなければと自分に思い聞かせています。
(それでも失敗だらけです)

2005.08.05配信

第1章 ひと組みずつ(後半)」の目次へ

幸あるところにおもむこう

17、あしきを作(な)す者は

いまにくるしみ

のちにくるしみ

ふたつながらにくるしむ

「あしきをわれなせり」と

かく思いてくるしむ

かくて

なやましき行路(みち)を歩めば

いよいよ心くるしむなり (友松圓諦訳)

(現代語訳)悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。 (中村元訳)

18、善きことを作(な)す者は

いまによろこび

のちによろこび

ふたつながらによろこぶ

「善きことをわれなせり」と

かく思いてよろこぶ

かくて幸(さち)ある行路(みち)を歩めば

いよいよこころたのしむなり (友松圓諦訳)

(現代語訳)善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいてさらに喜ぶ。 (中村元訳)

 

第15と16番目と同じような詩句です。

ただし、15・16番目は行為そのものに、
今回の18・19番目は行為が後に残す影響力に重点が置かれています。

過去の行為を振り返り、後悔(歓喜)し、
そして苦難のところ(幸あるところ)に行って、
さらに悩む(喜ぶ)という具合です。

釈尊当時にはインドの社会常識になっていた
「業(ごう)と輪廻(りんね)」の思想について、
お話ししなくてはならないようです。

「業(ごう)・輪廻(りんね)思想」とは、
人間は死後、業(ごう)を原動力として生まれ変わる、
というものです。

明確な形で説かれたのは、
仏教より古い成立の「ウパニシャッド哲学」の「五火二道説」が最初ですが、
思想自体はそれ以前から存在したようです。

「業(ごう)」とは、行為とその影響力のことです。

輪廻から自由になることが解脱(げだつ)で、
仏教を含むインドのすべての哲学・宗教の主題は、
いかに解脱するかということです。

さて、仏教の輪廻世界は以下のようになります。

天(天界、天上界)
人間
アスラ(阿修羅)
動物(畜生)
餓鬼
地獄

一番上の「天」が最も善い(好ましい)世界で、
順次好感度が下がっていき、「地獄」が最悪の世界です。

この六つの世界を六道と言います。

17番目の詩句は、悪業(あくごう)によって、
地獄(餓鬼、動物)に生まれかわって、さらに悩む、と説き、

18番目は、善業(ぜんごう)によって、
天(人間、アスラ)に転生し、さらに喜ぶ、と説いているわけです。

輪廻世界は現実にあるのでしょうか。

仏教では、世界は「心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」と、
考えています。(「#2 『心』こそがすべて」2005.06.09)

したがって、六道は私の心の状況を示しているのだと考えるべきです。

不満を持ち、争っている人の心は「アスラ」の世界に生まれているのですし、
明るく楽しくうきうきの状態は「天」にいるのです。

死ぬほどの苦しみ悩みにさいなまされているのは「地獄」にいるごとくであり、
欲に目がくらんで、いくら手に入れても満足できず、いつもガツガツと
求め続ける心は「餓鬼」、というふうに考えてよいと思います。

善業をなせば、後にも天にも昇る気持ちを味わうことができ、
悪業をなせば、後々まで後悔し堕地獄の苦しみに責められ続けるのです。

ばれなければそれでいい、と人の目はごまかせても、
自分の心まで偽ることはできません。

何度も何度も苦しみを味わうより、
何度も何度も喜び楽しんだ方がいいに決まっています。

幸い多きところにおもむけるように、常に行いに気をつけていきたいものです。

2005.08.12配信

第1章 ひと組みずつ(後半)」の目次へ

わかるとはできること

19、意味深き経文(みおしえ)を

いくそたび口に誦(ず)すとも

身にもしこれを行わず

心、放逸(おこたり)にふけらば

沙門(ひじり)とよばん

そのあたえはあらず

まこと、むなしく

他人の牛をかぞうる

かの牧牛者(うしかい)にたとうべし (友松圓諦訳)

(現代語訳)たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。─牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。 (中村元訳)

20、経文(みおしえ)を口にそらんずる

まこと少分(わずか)なりとも

身に行うこと法(のり)にかない

貪(むさぼり)と怒(いかり)と癡(おろかさ)とをすて

智慧は正しく

心よくほどけとき

この世にも著せず

かの世にも執せざるもの

彼こそ沙門(ひじり)の列(みち)に入らん (友松圓諦訳)

(現代語訳)たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。 (中村元訳)

 

仏教は思想ではありません。

実践がともなわなければ生きた仏教とはなりません。

釈尊は「一切皆苦」と言われた、
龍樹(りゅうじゅ)は「空(くう)」の思想を大成した、
道元(どうげん)の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は「諸法実相」を説いている、
というようなことを知っても、それは仏教思想史に過ぎません。

龍樹(150─250頃、ナーガールジュナ)は、仏教史上最大の論師のひとり。大乗仏教の基礎を作り、以後の仏教はすべて影響下にあるという意味で、八宗の祖とも呼ばれる。

道元(1200─1253)は、日本曹洞宗の開祖。著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は世界中で読まれ、研究されている。

そもそも「わかる」ということは実践をともなうものです。

「学ぶ」というのは、
脳に情報を入力し、それを肉体を使って出力することを繰り返すことだ、
と養老孟司氏は、言っています。

たとえば、本を読んで情報を入力し、
それをもとに書いたり、話したり、身をもって行うことによって出力するのが、
「学ぶ」ということです。

したがって、情報の入力だけではなく、出力ができて、
はじめて「わかる」「わかった」ということになるのです。

「たばこは百害あって一利なしですね」と言いながらたばこを吸っている人がいます。

こういう人は下のいずれかなのだと思います。

1、 情報としては入力されているが、出力までいたっていない。

つまり、わかっていない。

2、口では言っているが、このようには思っていない。

たばこには害もあるが、それ以上の利益もある、と思っている。

2の人はここでは問題ではありません。
(別な意味で問題です。思ってもいないことを言うべきではありません)

1の人が「わかる」には、
さらに入力をするか、あるいは出力してみることもよいかもしれません。

体調を崩して、医者から言われると、命惜しさに禁煙する。(さらに入力された)

禁煙してみたら、体調がよい。喫煙の習慣のおろかさに気づきたばこをやめる。
(出力してみた)

後者の方がよいのは言うまでもありません。

それは、入力と出力の循環という「学び」の本質をうまく利用しているからです。

宗教は特に、できてなんぼの世界です。

知識を得ることも大切ですが、それ以上にその知識を実生活の上に生かせるか、
あるいは実行できるかということが重要です。

常に、自分の生活と照らし合わせ、納得できるものは実行に移すようつとめましょう。

2005.08.19配信

第1章 ひと組みずつ(後半)」の目次へ

このページのトップへ

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL.

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional