最古の仏教経典『法句経』をひもとき、釈尊の智慧を参考に、幸せについて考えましょう。

第3章 心

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第3章には、#33から#43までの11の法句が含まれています。
心はまこと扱いにくいものですが、この章ではその「心」をテーマにした法句が集められています。

なお、章の題名は、中村元訳「真理のことば」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』1978年、岩波新書)をそのまま使用します。

こころはざわめき動く

33、こころはざわめき動き

(まも)りがたく

調(ととの)えがたし

されど

智者はよくこれを正しくす

()をつくるものの

真直(ますぐ)に箭を()めるがごとし(友松圓諦訳)

(現代語訳)心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを(なお)くする。──弓師が矢の弦を直くするように。(中村元訳)

「こころ」はまこととらえがたくままならないものです。

コロコロコロと転がって、こり固まるから、
「こころ」と言うのだ、と聞いたことがあります。

ある時は、ざわめき、動揺し、またある時は頑固にこり固まってしまう。

扱いにくいことは天下一品です。

僧侶である私は、一般の方々よりも「こころ」について考え、
人一倍「こころ」をコントロールしたいと願っておりますが、
ほとんどは敗北に終わっています。

もともと、私はちょっとしたことに驚き、あわて、怒り、取り乱し、
それが声などの態度に表れてしまう、という浅はかな人間なのです。

歳を重ね、少し鈍くなりましたので、
若いときほど、度はずれではなくなりました。

しかし、それは反応が鈍くなったというだけで、
根本的に改善されたわけではないのです。

哲学者の中村行秀は、著書『哲学入門』の中で、
こころは認識と感情の統一(体)と言っています。

「こころ」がざわめき動くのは、感情の起伏が原因です。

ということは、安定した「こころ」を得るには、
感情の動きをなくすればよいのだ、ということになります。

けれども、感情の貧しい人が魅力的でしょうか。

そもそも本人はそれで幸せでしょうか。

悟りを開くということは、
木石のようになることだと誤解されることがあります。

けれども、良寛さんはいかがですか。

子どもとまり遊びをしたり、かくれんぼをしたり、
床下から伸びてきた竹のために、床に穴を開けたり、
感情豊かな人物でなければ、こんなことはしなかったでしょう。

良寛さんが、悟りを開いていたことは確かな事実だと私は思います。

悟りを開くということは、決して木や石になるのではないことが
おわかりでしょう。

また、感情が決断の源泉です。

たとえば、明日の休日に友だちと会う約束をするとします。

一日中暇で、何時に会ってもいい場合、何時と決めるのは感情です。

対象が好きか嫌いか、どのように関わり合いたいかを決めるのは、
感情です。

現代の若者は、恋愛ができないということも耳にします。

もちろん、すべての若者がそうというわけではありません。

恋愛の始まりはもっとも純粋に感情的なものだと思います。

しかし、その駆け引きやつき合い方などは認識の力を必要とします。

したがって、感情と認識の統一がうまくできていないと、
恋愛は発展しないし、成就しないでしょう。

相手を思い通りにしたいが、言うことを聞いてくれない。

そんなのは当たり前なのですが、相手のことをよく理解できず、
あるいは理解しようともせず、行動に訴えてしまう。

ストーカーはこういうパターンでしょう。

ドメスティック・ヴァイオレンスも根は同じだと思います。

つまり、感情をコントロールするには、認識が重要な鍵になるのです。

認識とは、対象をありのままに理解しようとするはたらきです。

もちろん完全な客観はあり得ません。

理解するという行為が、私の知識・概念を対象に当てはめることだからです。

しかし、ひとまず好き嫌いを蚊帳の外において、
対象を理解することは可能でしょう。

私はこうしたいが、人間というものの性質からすれば、
相手は嫌だろう、それじゃあ、やめておくか、
ということは可能だと思います。

けれども、認識そのものに問題があれば、対応にも問題が出てきます。

相手が嫌がっているのに、認識が誤っているために、
それに気づかなかったという場合です。

性格の不一致、趣味が合わない、というのがこれにあたるでしょう。

結局、認識の元となる正確で豊富な知識が重要になるのです。

檀信徒の方々と、インドに釈尊の遺跡を参拝する旅に行ったことがあります。

「方丈様、私はこんな国に生まれなくてよかった、日本人でよかった」
と言う方がおられました。

インドの人々の貧しい暮らしや不便で不衛生な環境を見ての感想です。

物乞いの向かって「働け、働け」と言っていた乱暴な方もおられました。

日本語だから、言われた本人はわかりませんし、
その方も、相手がわからないから言っているのですが、認識不足です。

インドの社会のことがよくわかっていない方の感想ですね。

まず、インド人の方が日本人より幸せかもしれません。

他人と比べて少しでも自分が恵まれていれば、人間は幸せを感じます。

しかし、自分より恵まれている人を見れば、
逆に不幸に感じるのです。

ですから、本当の幸せは自分で決めることです。

インド人に生まれることと、日本人に生まれることの
どちらがいいかは決めることはできませんし、
そもそも自分が選択できないことなのですから、
その条件のもとで可能な限りの努力をするしかないのです。

次に、インド人が働かないのは、働いてもしようがないからです。

はたらいても収入が増えて、生活がよくなるわけではないからです。

これはカースト=ヴァルナ制という社会制度のせいです。

たとえば、壺作りの子どもは壺作りになるしかないので、
努力しても無駄なのです。

ですから、カースト=ヴァルナ制のしがらみから自由になった
IT関連の仕事をしている都市生活者はひじょうによく働きます。

働けば働くほど収入がアップするからです。

こういう背景も知らないから「働け、働け」と暴言を吐けるのです。

このように知識があれば、もっと深い感情をインドの人々に抱けるはずです。

単純な同情や軽蔑の念を抱くこともないでしょう。

このように、正確で豊かな認識(知識)が、制御された深い感情をもたらすのです。

驚いたり、一瞬カッとしたりするのは、原始の時代からの
身を守るために植えつけられた本能です。

これはどうしようもないことです。

しかし、その後の二次的な感情や行動は、認識によってコントロールできるのです。

「こころ」を正しくできるのは、しようとするのは、「智者」なのです。

「智者」だけが、「こころ」を正しくしようとするのです。

情報を正しく聞き、読み、判断し、「智者」を目指したいものです。

2005.11.04配信

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陸の上の魚のように

34、棲み家なる

水を離れて

うるおいもなき

(おか)の上に

なげすてられし

魚のごとく

誘惑者(まよわし)の領土を

のがれんとて

心ひたすらにたち騒ぐ(友松圓諦訳)

(現代語訳)水の中の住居(すみか)から引き出されて(おか)の上に投げすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。(中村元訳)

よりよく生きたいと願わない人はいない、と思います。

誰もがよりよい人間になって、幸せになりたいと望んでいます。

反面、欲に溺れ・翻弄され、強盗・殺人・詐欺・盗み・暴行など
人を傷つけ、自分を傷つけてしまうのも人間の一面です。

けれども、決して気分良くやっているのではないと思います。

証拠も残さず、まんまと大金をせしめ、これで一生楽して暮らせる、
これは人生で最高の大成功だ、と大喜びしたとしても、
心の奥底では後ろめたさが渦巻いているのです。

人を出し抜いて(だまして)大成功したという体験がないので、
実際の気持ちはわかりませんが、そうだと思います。

悪事をなして嬉しく思う人はいないはずです。

それが、「良心」だと思います。

陸に上げられた魚が、苦しんで身をくねらせ、バタバタと跳ね上がるように、私たちの「こころ」も「誘惑者」(悪魔、煩悩の支配)から逃れようともだえ苦しんでいるのです。

以下『マッチスティック・メン』という映画を例にして進めたいと思います。
ニコラス・ケイジが扮する天才詐欺師が主人公の映画です。

以下ネタバレになってしまいますので、それでもいいという方は矢印の先に続きがあります。
ネタバレが嫌な方はここで読むのをおやめになるか、映画を観てからお読みください。












































主人公のロイは相棒と組んで天才的な詐欺をはたらき、
優雅な生活を送っていました。

しかし、ロイは病的な潔癖性と広場恐怖症で、
仕事にも支障をきたすほどでした。

ロイが、ドアを開けるときに必ず「ワン・トゥー・スリー」と
三回開け閉めする場面があります。

私自身、子どものとき、必ず三回やらないと気が済まなかったことを
思い出し、妙な共感をしてしまいました。

閑話休題。

そのため、ロイは精神科医のカウンセリングを受け、
別れた妻が出産したはずの娘と会うことにします。

実は、精神科医、娘(実は娘ではない)、相棒などがすべてぐるで、ロイをだまして、
ロイのお金を全部だまし取ってしまいます。

その後、ロイは詐欺師から足を洗い、新しい妻との幸福な生活をはじめます。

その時には、彼の潔癖症と広場恐怖症もほとんど完治しているという話です。

ロイの潔癖症や広場恐怖症は、
詐欺によってお金を稼いでいることに対する良心の呵責が原因だったのです。

本人は表面的には罪を意識していなかったのでしょうが、
あるいは意識していても大したことはないと考えていたのでしょうが、
そうではなかったのです。

「いやー、対人関係がストレスで」といっている人には大してストレスは
たまらないのだそうです。

それよりもストレスだと意識できていない方が、ストレスが強いのだそうです。

ロイの「こころ」は自分が思っている以上に、
はるかに良心の呵責に苦しんでいたのです。

露見しなければ少々悪事をなしてもいいだろう、などとは決して思わないことです。

自分の「こころ」だけは誤魔化せませんからね。

2005.11.11配信

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